東京高等裁判所 平成10年(う)1364号 判決
被告人 平子こと鳴海和文
〔抄 録〕
二 所論は、要するに、次のようなものである。すなわち、原判決は、被告人が、平成一〇年四月二一日ころ、東京都板橋区所在のスーパーマーケットの便所内において、若干量の覚せい剤を含有する水溶液を自己の身体に注射して使用したとの事実及び、同月二一日、同区内の路上において、覚せい剤の結晶三・五五九グラムを所持したとの事実を、それぞれ認定判示している。しかしながら、被告人が自己の意思に基づいて覚せい剤を使用したことは、前刑出所以来、一度もない。また、被告人の携帯していた原判示の覚せい剤二袋が入った紙袋は、被告人が知人の佐々木正という人物から預かっていたものであって、被告人は、その紙袋の中に覚せい剤が入っていることを全く知らなかったのである。したがって、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実認定の誤りがあるというのである(なお、弁護人は、本件における控訴趣意書差出最終日の後に提出された控訴趣意補充書中の一及び三において、原判決が右認定の根拠とした、被告人の捜査段階における自白は、任意性を欠くものであり、本件で差し押さえられた覚せい剤及びその鑑定書並びに被告人の尿に関する鑑定書等は、違法収集証拠であって、いずれも証拠能力を欠くものであると主張していたところ、当審第一回公判期日において、右各主張はいずれも事実誤認の主張を補充する趣旨のものである旨釈明した。)。
三 そこで、右各所論について検討するに、右各所論にはいずれも、刑訴法三八二条所定の、明らかに判決に影響を及ぼすべき事実誤認があることを根拠付ける、訴訟記録及び原裁判所において取り調べた証拠に現われている事実の援用がなされていない。
しかも、原審記録を調査してみても、被告人は、原審公判廷において、被告事件に対する陳述として、「各公訴事実は、いずれもそのとおり間違いありません。」と述べた上、被告人質問中でも、本件で差し押さえられた覚せい剤二袋を示されて、それが自分の所持及び所有に係るものであることを認め、また、自分が本件各公訴事実に係る犯行に及んだことを前提とする供述をし、さらには、被告人自身が作成して原審において取り調べられた上申書中で、自分は、今回を本当に最後に覚せい剤等の薬物や暴力団から足を洗い、まっとうな社会人となる決心をし、取調べでは全て素直に話をし、組関係の人の話もしたなどと述べている。なお、被告人は、平成一〇年四月二二日午前〇時過ぎの現行犯逮捕に先立つ警察官らによる職務質問に際しては、本件覚せい剤二袋について人から預かったもので自分のものではないなどと述べていたが、司法警察員に対する同年五月八日付け供述調書(原審検察官請求証拠番号乙第三号)中で、右覚せい剤は、自分が同じ組の仲間から頼まれて仕入れた覚せい剤の中から無断でくすねたり、その仲間が自分の住んでいた組事務所のあるマンションの一階にある非常階段の下に隠しておいたものを自分が無断で取り出したりして手に入れ、仙台市に住む自分の幼なじみの友人に送ってやるつもりで持っていたなどと述べて、右覚せい剤をそれと知りながら所持していたことを認めるに至り、さらに、その余の司法警察員及び検察官に対する各供述調書中でも、本件各公訴事実を認める趣旨の供述をしている。そして、右各供述調書を含め、原審で取り調べた各証拠いずれをみても、弁護人が右各所論で主張するような事実の存在を窺わせるような資料を見い出すことはできず、また、その裏付けとなるような事実も一切現われていない。
なお、弁護人は、刑訴法三八二条の二第一項所定のやむを得ない事由として、被告人が、捜査段階で、自分の尿から覚せい剤の反応が出たことや、組の関係者に対して迷惑を掛けたくないという思い、否認すると警察官から苛められるかもしれないという恐怖心などから、不本意ながら本件使用及び所持の各事実を認め、起訴後も、原審第一回公判期日の二、三日前まで警察署内の留置場に勾留されていたことから、否認に転じたことが警察官に知られれば苛めに遭うかもしれないと思ってしまい、国選弁護人との間で十分な意思の疎通が図れないまま、原審の審理が終了してしまった旨主張する。しかしながら、右のような事情が同項所定のやむを得ない事由に当たるものとはいえない。したがって、弁護人の事実取調べ請求は、同法三九三条一項ただし書の要件を欠くものであり、取調べの必要性も認められないから、当裁判所は、当審第一回公判期日において、いずれも却下したものである。
以上みたとおり、右各所論は、同法三八二条及び三八二条の二第一項に定める事実を援用していないばかりか、原審記録及び原裁判所において取り調べた証拠中には、右援用の対象となり得るような資料や証拠自体が存在していないのである。
四 したがって、右各所論は、同法三八二条及び三八二条の二第一項に定める要件をいずれも欠くものであって、各論旨はいずれも、不適法なものというほかない。
(河辺義正 中谷雄二郎 高橋徹)